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共に生き、共に歩んだパラオと日本

  • 2016/03/21
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昨年4月、天皇皇后両陛下が
パラオ共和国を訪れたというニュースを目にした方も多いと思います。
このニュースは多方面で大きく取り上げられ、
今まで以上にパラオの知名度がぐっと増すきっかけとなりました。
日本の両陛下がパラオへ赴くことになったその背景には、
今でも根強く続く、日本とパラオの深い歴史や絆があるのです。

パラオの礎を築いた日本の存在

皆さんはパラオと聞いて、何をイメージしますか?
海、自然はもちろん、先の天皇皇后両陛下訪問や、
日本に対して非常に友好的である、という印象が浮かぶ方も少なくないと思います。

実際にパラオは非常に親日的で、
もしパラオを訪れた際には、至るところでその親しみを感じることができるでしょう。

そもそも、なぜパラオは日本に親しみを持ってくれているのか。
それはパラオが日本に統治されていた歴史が、大きく関係しています。

パラオは16世紀のスペイン植民地から始まり、続いてドイツの植民地、
そして第一次世界大戦時、日本がパラオを占領、
後に国連認可により正式に日本の「委任統治領」となりました。

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「委任統治領」とは、国際連盟の指定を受けた国が
一定の非独立地域を統治する制度で、元々は白人諸国が有色人種諸国を統治する、
というより、植民地として支配することに
国際法的正当性を与えるために作られたものです。

であれば、日本はパラオを植民地化したことになりますが、
この統治時代こそが、パラオと日本を大きく結びつけることになりました。

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日本が統治する以前のスペイン植民地時代、
「天然痘」と呼ばれる感染症がヨーロッパより持ち込まれてしまい、
さらに現地人に対する激しい搾取の結果、
パラオの人口はなんと10%、わずか数百人まで減少してしまいました。

その後ドイツの支配下になり、ドイツはココナッツ栽培や採掘など、
産業振興には力を入れたため、パラオの国力は徐々に回復してきましたが、
スペイン同様、道路や水道などインフラの整備、
現地人に対する教育はほとんど行われませんでした。

しかし次にパラオが日本の統治下となると、
日本政府は今までの2カ国とはまったく異なる統治の仕方を始めます。

日本は自国の発展のためだけにパラオという土地や人々を利用するのではなく、
パラオ自体の発展を目指し、町に電気を通すなど住環境の整備はもちろん、
学校を設立し子どもたちの教育もスタートさせ、
真珠の養殖やサトウキビの栽培、医師など、
日本人の職人や技術者が直接現地に渡り指導を行い、
様々な産業を芽生えさせました。

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これによりパラオの人口は20,000人から50,000人へと激増、
日本からの移民も一時は25,000人近くいたといわれており、
パラオ人と日本人がともに協力し、
パラオという国を大きく発展させてきたその事実が、
今もパラオの人々の心に刻まれているのです。

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パラオへ伝わった「日本人の精神」

パラオの人々が日本に親しみを持っている理由は、
日本がパラオの経済発展に大きく貢献したからだけではありません。

人々に本当に伝わったのこと、
それは日本人が持つ「勤勉さ」「誠実さ」でした。

日本の統治以前に行われていた現地人への搾取などは行われず、
パラオの発展のために率先して畑を耕し汗水たらして建設作業を行う、
そんな日本人の生真面目な姿は当時のパラオの人々の心をうち、
また、統治下だからといって人々を軽視することなく、
平等に扱う日本人の精神をもってして、パラオの人々と日本人は、
すぐに気持ちを通わせることができるようになったのでした。

戦地と化したパラオでの絆

大きな経済発展を遂げたパラオの地に、再び戦火が巻き起こります。
第二次世界大戦が始まると、日本はパラオのコロールという地に海軍基地を建設し、北西太平洋方面の重要な作戦拠点となり、ついに大戦末期太平洋戦争の1944年、パラオのペリリュー島が日米の戦場のひとつとなりました。

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ここペリリュー島には日本軍が進駐し陣地が作られ、
日本兵と島に住む899名の島民はすぐに仲良くなり、
日本の歌を教え一緒に唄ったりして過ごしていました。

しかし、やがて戦況は日本に不利に傾きはじめ、
いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になりました。

日本の統治下になる以前の白人たちによる搾取の時代を
身をもって知っている島民たちは集会を開き、
全員で話し合い、ある決意を固め、
島民の代表数人と共に当時日本軍の守備隊長であった中川隊長のもとを訪れました。

「自分達も一緒に戦わせて欲しい」

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日本人から教えられた助け合いの心、これまでの感謝を示そうと、
島民総意として大人から子どもまで日本軍への参加を申し入れたのです。

しかしそれを聞いた中川隊長は、しばらくの沈黙のあと、
驚くほどの大声で吐き捨てました。

「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」

微力だが日本軍として一緒に戦う決意を、
きっと日本兵は喜んでくれるだろうと考えていた島民たちは、
あれだけ仲良く過ごし、統治下の人間だからといって蔑むことなく
対等に扱ってくれていた日本軍から「土人」呼ばわりされたことに
大きなショックを受け、日本に裏切られたという思いで悔し涙を流しました。

数日後、これから戦場となる島を出るために日本軍が用意した船に乗り込む島民たち。
もちろん港には日本兵の姿はありません。

長きに渡り暮らしてきた場所を捨て去ることも当然悲しいですが、
それよりもやはり仲間と思っていた日本軍の兵士たちに
裏切られた悲しさが大きかったといいます。

島民全員が船に乗り込み、
パラオ本島に向かって進み始めた次の瞬間、

離れゆく浜に日本軍の兵士が一斉に走り出してきました。

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兵士たちは割れんばかりの大声で、かつて島民と唄った歌を唄いながら、
目一杯手を振り、先頭には笑顔で見送るあの中川隊長の姿もありました。

そのときはじめて、
中川隊長の言葉は自分たちを争いに巻き込まないように、
心を鬼にして発せられた言葉だったということに島民たちは気が付きました。

日本軍の気持ちを知った島民たちは、涙を流しながら、同じように
ちぎれんばかりの力で手を振り、島をあとにしたそうです。

その後、開戦されたペリリュー島での戦闘は、
3日で陥落するといわれていたところ、なんと72日間も耐え忍んだ末、
日本軍の敗戦となってしましました。

この間の民間人の死者はゼロだったといわれています。

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敗戦後しばらくして島に帰ってきた島民たちは、
米軍により放置された日本兵の遺体を、ひとつひとつきれいに埋葬してくれました。

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戦地となったペリリュー島には、今もなお多くの戦跡が残されており、
日本軍とパラオの人々の歴史、そしてなにより戦争の悲惨さを発信し続けています。

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パラオの日常にかいま見る日本

日本の敗戦後、アメリカの支配下となったパラオはただの軍事基地として扱われ、
産業を発展させようという施策などはまったく行われず、
逆に日本の記憶が残るとして、様々なものが一掃されてしまいました。

それから50年間アメリカの圧政に苦しみましたが、
1981年に自治政府「パラオ共和国」となり、
1994年ついに独立することができました。

そんなパラオには、今でも至るところに日本を感じることができるんです。

パラオ語の日本語

日本の統治時代、日本語教育も行われていたことから、
今でもパラオ語の25%が統治時代に残った日本語が使われています。

例えば、「弁当」「ベントー」「新聞」「シンブン」
「野球」「ヤキュウ」、さらに「美味しい」「アジダイジョウブ」
「混乱する」「アタマグルグル」、といった様に、

名前も「サトウ」「タナカ」「ヤマモト」といったように、
性別問わず使われたりしています。
ちなみに第6代パラオ大統領の名前は「ナカムラ・クニオ」氏。

他にも多種多様な日本語がパラオには息づいています。

月の丸?

パラオの国旗を見て、何か気がつきませんか?

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なんとなく日本の国旗に似ているデザインに思えます。

独立に際し制定されたパラオの国旗は、
パラオ国民から公募された70もの案の中から全会一致で選ばれました。

周囲の青は太平洋、真ん中の黄色の丸は月を表しています。
なぜ月なのか、それは「太陽」を象徴している日本の日章旗と対を成し、
月は太陽の光が無ければ輝くことはできないと、
日本との友好を示そうとしたもので、
その月が旗の中心から少しズレているのは、
日章旗とまったく同じ構成にしては失礼だからとわざとズラし、
日本に対する畏敬の念を表しているのだそうです。

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人々の暮らしの中に日本という国が生き続けている、
そんな国はパラオ以外に見当たりません。

日本との深く固い絆を知った上で訪れるパラオには、
きっと想像以上の感動が待ち受けていることでしょう。

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